| ●Kazさんのページ |
「英語よもやま話」2012年
ここには、読者の皆様との交流の場でもある巻頭序言を集めてあります。
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●2012年1月【滅相もない】
最近の日本では滅多に使われない、「滅相もない」という言い方があります。私が子供の頃、祖母が近所の方に貰い物のお裾分けをして、相手の方から御礼を言われた時に「滅相もない」と、よく言っていたことを思い出します。 この語源を調べると仏教から来ているようで、常に変化し続ける「諸行無常」の人生は、四つの「相」から出来ています。因縁によって<生じ>、<存続し>、<変化し>、<消滅する>、この四つの「相」をそれぞれ、<生相(しょうそう)>、<住相(じゅうそう)>、<異相(いそう)>、<滅相(めっそう)>と呼んでいます。 この消滅してしまう「滅相」は、人にとって死を意味しますから、生き続けたいと思う人にとっては「有ってはならぬこと、思いもよらぬこと」となります。そこから転じて「とんでもないこと」という意味になり、御礼を言われた時など「とんでもございません、どういたしまして」、という気持ちを伝えるために使われるようになったのだそうです。 |
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●2012年2月【宣伝広告等の英語】 広告宣伝等に見られる「ユーモラスな英語の間違い」ばかりを集めて展示している engrish.com というサイトがあります。綴りの子音が抜けているもの(例1)、日本人が苦手な「L」と「R」を間違えたもの(例,2)、綴りがちがうので卑猥になってしまったもの(例3)、発音は同じだが意味が全く違う語句(例4)、などが吹き出しそうな脚注付きで掲載されています。
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●2012年3月【光市母子殺害事件に終止符】
また被告も知人宛の手紙に「無期はほぼキマリで、7年そこそこで地上にひょっこり芽を出すでしょう」、「犬がある日かわいい犬と出合った。そのままやっちゃった。これは罪でしょうか」などと書いたり、被告人尋問時に殺した赤ん坊を押し入れに閉じ込めたことについて、「押し入れに、ドラえもんがいると信じていた。4次元ポケットで何とか再生してくれると思った」と供述するなど真摯に反省した様子が見られず、今回の最高裁結審は当然のことと思いました。それにしても、なぜこんな極めて当たり前な判決が確定するまでに、かくも長き年数をかけなければならないのでしょうか?何の罪もない遺族にとって、正義の実現までのこの13年間は、苦しみと悲しみの日々だったに違いありません。 ■裁判の経過■ |
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に英語の暦をJanuary, February…Decemberと丸暗記させられた時、どうして1月、2月と単純に数字表記しないのかと思っていましたが、ローマ史を調べると興味深い背景が浮かび上がってきます。 紀元前7世紀にローマのヌマ王が、それまで種蒔き時期の3月を第一ヶ月とし、一年を10ヶ月としていた農事歴を改め、月の満ち欠けに準じた12ヶ月のローマ歴(太陰暦)を定めました。その650年後、ローマ皇帝となったユリアス・カエサル(英名Julius Caesar)が、太陽の周りを回る地球の周期を基にして作ったユリウス歴(太陽暦)は現在の暦の基本となりましたが、各月の呼び名はこの二つのローマ時代の暦に由来するのです。 英語名とそれに対応するラテン語、そして語源について表にしてまとめてみました。9〜12月は以前3月が第一月であったことから、そこから何ヶ月目になるかというラテン語の数詞が頭についたものが、そのまま名称 として残ったようです。1〜8月がそれなりに曰く来歴がある名なのに、残りの月の名は随分いい加減な感じがしますね。(笑)
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●2012年5月【昭和天皇独白録名】
◆昭和10年(1935年)天皇機関説問題 国家を人体に譬えれば天皇は「機関」ではなく「器官」という文字を用いれば、我が国体との関係とは少しも差し支えないと話した。私を神だと云うから、私は普通の人間と人体の構造が同じだから神ではない、そういう事を云われては迷惑だと云ったことがある。 ◆昭和11年(1936年)二二六事件 叛軍の首領三人が自決するから検視の者を遣わされたいとのいうのであるが、検視の使者を遣わすという事は、その行為に筋の通ったところがあり、之を礼遇する意味も含まれているものと思う。赤穂義士の自決の場合に検死の使者を立てるという事は判ったやり方だが、叛いた者に検視を出すことは出来ないから、この案は採り上げないで討伐命令を出したのである。 ◆昭和20年(1945年)8月14日 御前会議 空襲は日々激しくなり加うるに8月6日には原子爆弾が出現し、国民は非常な困苦に陥り、ソビエトは已に満州に火蓋を切った。之でどうしてもポツダム宣言を受諾せねばならぬ事となったのである。豊田軍令部長、梅津参謀総長、阿南陸軍大臣は之では国体護持が出来ぬと云い、東郷外務大臣は出来ると云う。かように意見が分裂している間に、米国は飛行機から「日本はポツダム宣言受諾」の宣伝ビラを撒き始めた。このビラが軍隊一般の手に入ると「クーデタ」の起こるのは必然である。そこで私は何を置いても廟議の決定を少しでも早くしなければと決心し、14日御前11時に会議を開き、私はこの席上最後の引導を渡したわけである。開戦の際東条内閣の決定を私が裁可したのは、立憲政治下に於ける立憲君主として已むを得ぬ事である。もし己が好むところは裁可し、好まざることは裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異なるところはない。然し乍ら終戦の際は之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のままその裁断を私に求めたのである。そこで私は国家・民族の為に私が是なりと信ずる所に依って、事を裁いたのである。 ◆敗戦の原因は四つあると思う。
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